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窮屈な眼鏡(8)

 浴室から半裸で戻ってきた宏隆に、香苗はいとも簡単にベッドに追いやられ、服を剥がされた。素早いのに優しい手つきに、香苗は感心さえした。栄治とのそれよりも遥かに濃厚なキスを交わしていれば、いつの間にか香苗の胸元のブラジャーは緩んで、ほんのり浮き上がった白い山が二つ丸見えになっている。その膨らみを宏隆の舌でいじられれば、香苗はいじらしい声が吐息と共に漏れ出す。ゆっくりと舐めていたかと思うと、急に激しくなり、香苗が荒い鳴き声をあげれば再び舌の動きは緩やかに戻る。
 ダブルベッドの上で、香苗の高く切ない鳴き声だけがよく響いていた。香苗は自分のその声がどこから出ているのかわからない。出所の知れないその声に、自分自身で酔ってしまう。
 たっぷりふたつの胸を唾液で汚した後、宏隆は香苗の唇に、それまで胸を愛撫していた舌を挿入する。唇の中まで淫らに汚しながら、宏隆は香苗のブラジャーを抜き取る。
 白い肌に、レースをふんだんにあしらった紺のパンツだけが香苗の纏う唯一の衣服だ。しかしそれが無くなるのも時間の問題だ。
 口内の中を激しく踊る宏隆の舌に、香苗は鼻から声が抜けていく。香苗の声にうっとしとした表情を浮かべながら、宏隆は舌の挿入を止めない。唇の内側、舌の奥、歯茎と、まるで脈絡もないように見せかけてしっかり香苗の性感帯を舐め上げる。舌はそのままで、手は胸の膨らみへ。膨らみの上、突起に指が触れた途端、香苗はびくりと振動する。
 振動を切っ掛けに、宏隆はよくうねる舌を唇から横へと移動させていく。手は胸の突起をいじり倒している状態のまま、宏隆の生暖かい舌が首筋をそうっと舐め上げる。新しい快感に、香苗の背中がのけぞった。そのまま、舌は香苗の耳へと侵入していく。香苗は耳の奥で唾液が立てる音に、自身の喘ぎ声すら聞こえなくなった。香苗の、未だ触れられていない場所が熱を増していく。触れて欲しくてたまらないのに、おねだりをする暇さえ与えられない。
 香苗の声が大きく、高く切なさを増すにつれて宏隆の手も下へと伸びて行った。香苗は耳の奥で立てられる卑猥な音色と、遠く聞こえる自身の切ない鳴き声に意識が朦朧としてくる。宏隆の手がやっと香苗の大事な穴へ触れた瞬間、まるで脊髄に蜂蜜を流されたような甘い感覚が香苗を襲った。香苗が一際大きな鳴き声をあげる。
「ごめんね、こっちもいじってあげなくて。香苗の可愛いお口がいっぱい泣いてる」
 宏隆の指が香苗の中心をぬめる。そのぬらりとした動きがさらに香苗を刺激する。もう、血液は全部蜂蜜になってしまったんじゃないだろうか。じゃなければ、こんなに溢れ出している、ぬるりとした液体は何だというのだ。
 香苗の蜂蜜をすくいながら、そこも優しく撫でる。滑りが良くなった香苗の中心はさらに熱を増している。体内の疼きが増していく。
「あ、ひろ、もう」
「まだだめ」
 宏隆は笑って言って、香苗の唇を塞ぎながら、中心に指を差し込んだ。香苗の身体に甘い雷が駆け抜ける。荒々しく香苗の急所を撫で、突き、香苗が酸欠と快感に限界を感じた時、宏隆は香苗の中から指を抜いた。抜かれた瞬間にすら、香苗は身体を痙攣させる。
 唇ごと宏隆の身体が離れた。
「もう限界」
 言いながらスラックスを脱ぎ捨てる。
 整う様子を見せない荒い呼吸の間に、香苗も言葉を返した。「私も、もう」
「着替えは持ってきたよね」
 宏隆の確認に香苗は頷く。と、覆いかぶさった宏隆は下着を脱がす手間も惜しんで、自分の中心を香苗の中心にこすりつける。香苗は襲いくる快感に意識を奪われそうになりながら、かろうじて笑んだ。
「ねえ」
 今、もう香苗の体内に自分の熱くなったそれをねじ込もうとしていた宏隆が香苗を見やる。「どうした?」
「私のこと、好き?」
 香苗は、笑って聞いた。蒸気した頬に、半開きの瞳。質問は誘い文句にしか聞こえない。
 宏隆はそれまでの野獣な表情を一瞬で捨てて香苗に微笑みかけた。
「好きだよ、大好きだ。檻に閉じ込めておきたいくらい」
「なあに、それ。ペットみたい、ね」
「大丈夫。ちゃんと毎日愛してあげるし、美味しいごはんも綺麗な洋服も用意してあげる」
 冗談だ。そんなことはお互いわかっている。それでも、香苗は思った。
「私、愛玩動物なの、ね」息はまだ荒い。「ねえ、キスしながら、いれて」
 香苗のお願いに宏隆は、野獣と紳士を混ぜた微笑を投げかけた。
「好きだよ、香苗」
 香苗が答える前に唇は塞がれ、貫かれた身体は、甘美な電流で感電死しそうだった。
 
 行為が終わってから、香苗は重い腰を引きずって浴室のドアを開けた。汗と唾液と自分が流した粘液を早く洗い流したい。宏隆の部屋はどこも冷房が行き届いていたが、それでもべたついた身体は気持ちが悪い。
 一緒に入りたがる宏隆にはアイスティーの用意を申し付けて退散させた。宏隆は一人上手で、色々なことに手を染める。コーヒーメーカーも紅茶のポットもブランド物だ。一時期飲み物を自作することにのめり込んで買ったらしい。アルコール飲料用にはシェイカーもマドラーも揃っている。最近は作っていないと言っていた。アルコールには二十代の頃にのめりこんだらしい。今ではシェイカーもマドラーも、その他の器具も食器棚の奥に仕舞い込まれている。
 宏隆は圭介と違い、大学を卒業してからずっと同じ会社の営業をやっていると、香苗は聞いている。仕事が圭介よりも忙しいのはそれだけ業績を伸ばしたいからだ。お金は心を裕福にするよ。それを聞いたのはいつだったか。買い物に出かけた時だったか、それともこのマンションを購入した時だったか。宏隆は本心からの笑顔でそう言っていたのを覚えている。
 香苗はシャワーの蛇口をひねり、頭から浴びた。思っていたより暑かったので温度を下げる。宏隆は湯船に湯を張っていたが、暑さとだるさで、とても入る気にはなれない。何より、香苗は湯船よりもシャワーの方が好きなのだ。この行為の後は特に。全てを排水溝に流してくれる気がする。醜さも、汚れも、快感も、行為の後の虚しさも全部。
 香苗の髪は打ち付けるシャワーのおかげですっかりウェーブも取れている。下に垂れ下がる茶色い髪は、緩やかな波を排除してしまえば傷みがよく目立つ。香苗は傷んだ自分の髪を弄びながら雨音に似たシャワーの音色を聞いていた。浴室を出たら、美容院に行きたいと言ってみよう。宏隆はその願いを聞き入れるはずだ。宏隆は、香苗に甘い。それは本当に、ペットに対するかのように。
 香苗は自分が選び、宏隆が買ったシャンプーを手に取り頭を洗った。宏隆と同じ匂いのものは使わない。人間という生き物は、自分達が思っている異常に嗅覚が優れている。特に、男女間において匂いはとても大きな問題だと香苗は考えている。
 宏隆と違う匂いのものならなんでもよかった。帰宅した際に、宏隆と同じ匂いを漂わせていることを、兄である圭介に知られるのは頂けない。
 圭介は香苗と宏隆の仲を知らない。頻繁に会っていることも、性交渉をしていることも、何も知らない。圭介が知っているのは、香苗には年下の彼氏がいるということだけなのだ。友人と撮ったプリクラの画像を見せた時、栄治との物も紛れていた。だから圭介は知っている。けれど、宏隆とのことは、何も知らない。
 知ればどうなるだろう。香苗は時折考える。圭介が、自分の妹と、自分の先輩が男女という関係にあると知ったらどうなるだろう。仕事に差し支えるか、それともより仲良くなるのか。
 香苗にはうまく予想ができなかった。圭介に連れられて香苗の家に来る宏隆はいつだって少し控えめに、しかし圭介には気を許した友人のように笑っている。実際、友人なのだろう。先輩後輩というだけには見えないし、宏隆が圭介を後輩として可愛がっている様子もない。対等に笑い合っている気がする。
 だからこそ、香苗は絶対に家族には知られたくなかった。知られて、調和している家族の輪が乱れるのは嫌だ。その原因が自分なのならば、尚更。
 香苗は缶ビールを傾けていた兄の姿を思い出す。それは、とても平和な姿のように、香苗には思えた。呆けた顔で垂れ流しのテレビを見ながら、ゆったりとした時間の中で缶ビールを飲んでいる兄。
 朝見送りしてくれる母親。香苗よりも早く家を出て、休日は、やはり圭介と同じようにゆったりした時間に身を委ねている父親。時間さえ合えば家族四人でテーブルを囲み、団欒することもある。
 その家族の在り方は平和な世界として完結している。そのことに、香苗には不満もない。
 ならばどうして自分はここにいるのだろう。
 考えながら、香苗は自嘲した。理由など、簡単じゃないか。
 自嘲の笑みは浴室内に立ち込める湯気で、陽炎のように不確かに揺れていた。
 香苗はシャワーを終えると、宏隆の家に置きっぱなしの寝巻きに着替えた。脱衣所に置いてあった眼鏡も再び身につける。ぼやけていた世界の輪郭がはっきりとしてくる。
 衣類の匂いにも香苗は気を使っていて、置きっぱなしでも、絶対に宏隆の服と同じ場所には仕舞わないし、選択も特別にクリーニングをお願いしている。宏隆に買い与えられた淡いブルーの寝巻きを初めて着た時、香苗は理由も言わず、クリーニングに出しておいてと宏隆に伝えた。宏隆は何も聞かなかった。何も聞かず、言われた通りにしてくれている。そのおかげで香苗は一度も宏隆と同じ匂いを自宅に持ち帰らずに済んでいる。
 香苗がリビングに向かえば、言いつけ通りアイスティーが用意されていた。芳香剤の香りしかなかった室内に、やっと人並みの温かさが灯る。
「早かったね。いま冷やし終えたところだよ」
 宏隆の淹れるアイスティーは、上等な喫茶店と並ぶ程度には美味しい。香苗はそれを気に入っていた。氷を直接入れて冷やさずに、急ぐ場合は紅茶を入れた容器を、氷水の中で冷却させる手間を惜しまない。だから、香りが逃げない。
「シャワーだけで済ませちゃった」
「なんだ。せっかくお風呂もいれておいたのに」
「宏隆が入れば?」
「一緒にこれを飲んだら、俺も入るよ。もう遅いしね」
 質素なリビングには時計がない。それでも、香苗が浴室を出る時、浴室のディスプレイが表示していた時間は深夜も二時を回っていた。
「先に寝ていてもいい?」
 香苗はやわらかいソファに腰掛けながら訊ねた。目の前には、ガラスでできたローテーブルと、爽やかな香りのアイスティーが二つ。トランクスにシャツを着ただけの宏隆が隣に座り、ソファがさらに深く沈む。
「いいよ。明日は何時に起きるの?」
「いつもと同じ。七時に起きれば間に合うわ」
「じゃあ目覚ましの用意、よろしく」
 わかった、香苗は答えながらアイスティーに手を伸ばす。火照った身体の芯が冷やされて心地良い。前回香苗が飲んだ紅茶とは、また少し味が違うと思った。
「紅茶、変えたの?」
「変えてないよ。カモミールをちょっと足しただけ。一応ね、寝る前だし」
 答えながら宏隆もアイスティーを口に運ぶ。
「気が利くのね」
「ジェントルマンだからね」
「暇人の間違いじゃないの?」
「そう言ってしまったら格好悪いだろう」
「なあに、それ。宏隆は自分が格好いいと思っているの?」
 挑発を滲ませた笑みを向ける。宏隆は横目でその笑みを見ただけで、正面からは受け止めなかった。
「並よりは上だと思っているけど」
「随分なナルシストぶりね」
「香苗は格好悪い男とセックスしたいと思わないだろう」
 腹を探り合う会話。香苗はそれが楽しくて、身体は疲れているのに、心は娯楽で高揚している。
「どうしてそう思うのかしら。もしかしたら、格好悪い男ともセックスしているかもしれないわよ」
「それはないね」
「言い切る理由は?」
 香苗の問いに、宏隆はグラスをテーブルに置いた。ガラスのぶつかる音が上質な音楽の様に音叉する。美しい音は。安物ではない証拠だ。グラスから離した手はゆっくりと香苗の頬に向かう。
 宏隆の手が香苗の頬を撫でた。
「だって、香苗はプライドが高いじゃないか」
 労わるような手つきに、香苗は笑おうとした。笑おうとしたのに、表情筋は自分の理想通りに動いてくれない。セックスの後、宏隆の瞳はいつも穏やかになる。女を食らって、空腹が満たされて満足しているのだ。その瞳の中に余裕を見つけて、香苗は、益々笑えなくなった。宏隆の余裕の部分に、自分の独白が入り込めるスペースを見つけてしまったから。
「そうね。きっと、そうなのよね」
 返事はない。宏隆は笑顔のまま、俯いた香苗を愛でている。
 香苗は自らの頬に触れている、大きな手のひらに自分の手を重ねた。温度に任せて目を閉じる。グラスで冷えていた手のひらは、すぐに宏隆の温度を吸収して温かさを取り戻す。
 香苗は目を閉じながら、眼鏡を取って目を開ける。レンズを通さない世界では、宏隆の表情も見えない。
 自分が見えないだけで、相手には絶対に見えている。理屈ではわかっていても、感覚の中では、自分の視界さえぼやければ、すべてが曖昧になる気がした。曖昧になって、見透かされない気が、した。
「それを飲んだらもうおやすみ。明日は平日だ」
「宏隆の方こそ、仕事があるくせに」
「成長期を過ぎればね、睡眠時間は短くなるものだよ」
「やだ、オヤジくさい」
 手の中に眼鏡を納めたままの香苗に、宏隆が小さなキスをした。近づいたおかげで、少しだけ、笑っている雰囲気だけが見えた。
「さ、俺もお風呂入って来るよ。ひとりで寝られる?」
 立ち上がると同時に、頬の温度も離れていく。
「こどもじゃないわ」
「じゃあ朝ごはんも作ってくれる?」
「どうしてそうなるのよ」
「夫婦みたいでおもしろいと思わないかい?」
「さっさと入らないと、眠る時間なくなるわよ」
 それは困るな。全く困っていない口調で言って、宏隆はリビングを出て行った。香苗は最後まで眼鏡をしなかった。
 見透かされるのは、嫌いだ。体内を覗かれているようで、居心地が悪くなる。
 香苗はドアの開く音を聞いて、眼鏡をかけた。化粧を落としてしまえばレンズに当たらない睫毛に、どことなく惨めさを感じた。



テーマ : 恋愛小説
ジャンル : 小説・文学

窮屈な眼鏡(7)

 香苗がお風呂を済ませて自室に戻ると、携帯電話のランプが赤く点灯している。着信のあった証拠だ。香苗は濡れた髪のまま携帯を手に取った。
 着信、二件。林田宏隆。
 留守番電話に伝言はなかった。携帯電話の中では夜中の十二時を過ぎたことを知らせる数字が並んでいる。香苗は迷ったが、結局、折り返すことにした。
 呼び出し音が一回鳴り終わらないうちに相手がでた。
「ずいぶん、ほったらかしにしてくれるのね」
「圭介がいるんだから、わからないかな。最近忙しいんだ」
 機械を媒体にして、低く、しっとりとした声が耳に馴染む。
「それでも、連絡ぐらいくれないと、忘れてしまうわ」
「連絡じゃなくて、会わないと、だろう? お姫様」
「お姫様だなんて思っていないくせに」
「思っているよ。こんなに可愛いのだからね。さっき、仕事が終わったんだ。実は今運転中で、おまわりに見つかると大変困る」
「じゃあ、早く私の望んでいる言葉を言ったら?」
 挑発に、宏隆の薄い笑い声が聞こえた。
「今からお迎えに上がりますよ、お姫様」
「着替えて待ってる」
 それだけ言って香苗は通話を終了させた。香苗は宏隆と喋る時、いつもとは違う口調になる。自分でもどうしてだかはわからない。無意識に、大人の男に合わせているのかもしれなかった。これから宏隆が会いに来るのだと思うと、時間は気になるものの、体内で渇いていた何かが潤ってくるのを感じた。夜のうちに戻ればいいと思う反面、男に抱かれて朝を迎えたい願望もある。宏隆は朝まで傍にいることを望んでくれるだろうか。答えは明白だ。友人に呼ばれたと嘘の書置きをしておこうと決心し、引き出しに手をかけた。何を着ようか。
 結局、半そでのパフスリーブに、エスニックなマキシ丈ワンピースを着込んだ。上着には赤いカーディガンを選び、それを着る前にもう一度脱衣所へと向かった。髪が濡れたままではいけない。それから、化粧もしなければ。
 お風呂で化粧を落とした後に再び化粧をするのは億劫だが、外出するのだ。薄い眉で外を歩くわけにはいかない。香苗はみっともない姿で外に出るのは嫌だった。相手が男なら、尚更だ。
 これから香苗の家に向かうとすると、一時間もかからないだろう。香苗はパーマを崩さないよう念入りにドライヤーをしながら、どこまで化粧をするべきか、帰宅は何時になるだろうか考えていた。
 やっぱり、奈緒に呼ばれたことにしよう。
 香苗は嘘の書置きの文章を頭の中で練りながら、鏡に映る自分を見ていた。影を湛えた笑みが映っていた。
 幸いなことに、香苗の両親は夜の外出に対して寛容だった。香苗が嘘をつくはずがないと信じているのか、それとも嘘だとわかっていて認めているのか。香苗にはわからない。それでも香苗の成績が下がることなく、学校も真面目に通っている限り、夜の外出に関して何か言われることはないだろう。香苗の母は今年で五十三、父は五十六だ。決して若いと言えるような年齢ではない。圭介が若い頃はまだ覇気があった。よく怒鳴られていたのを、香苗もよく覚えている。しかし長子と九つも違えば衰退だってやってくる。実際は、認めているというよりは叱ることにも過保護に構うことにも疲れているのだろう。
 香苗は通学鞄に明日の授業で使う教材、筆記用具、化粧道具を詰めた。雑誌の付録についてきたトートバッグには制服を入れる。ローファーはそちらに入りそうにないので、家を出るついでに通学鞄にねじ込めばいい。書置きは、リビングに残してきた。
 香苗は準備を終えてベッドに腰掛けた。そろそろ電話が来るはずだ。待っている時間は、何かをしている時間よりも遥かに体感が長い。栄治がゲームセンターで獲得してきたキャラクター物の掛け時計を見た。針は通常営業の筈なのに、怠けてゆっくり動いているように感じた。早く電話が来ればいい。そうすれば、夜の仮面を被ることができる。栄治と居る時とは対照的な、暗くて、醜くて、だらしない仮面に身を委ねてしまえる。電話が来れば香苗のスイッチが切り替わる。自分では切り替えることのできないスイッチを押すのは、いつだって携帯電話なのだ。
 午前零時五十分。香苗の携帯電話が震えた。香苗は震える携帯電話をわざと持て余してから、ゆっくりと通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「着いたよ。いつもの場所に止めてある」
「わかった。すぐ行く」
「ところでさっきは聞き忘れたけど、今夜はシンデレラガール?」
 途中で帰ってしまうのかという意味だ。声の表情から、言葉の裏を感じ取って、香苗は予想通りの宏隆の語調に笑んだ。
「今夜は、朝までガール」
「了解。じゃあ、着替えを忘れずに」
「もちろん。じゃあ、待っててね」
 はあい、間延びした宏隆の声を聞いて通話を切る。電話をしながらすでに立ち上がっていた香苗は、鞄、トートバッグを攫って静かに部屋を出た。親を起こさないように、慎重に歩く。
 香苗がマンションを抜けると、すぐ目の前の道路に見慣れた白い車が止まっていた。宏隆の車である。すぐに香苗を見つけた宏隆が、運転席から身を乗り出して助手席の扉を開く。
「遅くなってごめんね」
 いかにも仕事帰りなねずみ色のスーツだが、黒いネクタイは緩められている。髪型だけは、ボリュームを抑えた仕事用のままだ。
「髪」
 乗り込みながら、香苗は言った。
「髪?」
「そうしていると、老けて見える」
「そういえば、会社からでて、いじっている余裕もなかったからな」
 香苗は足元に荷物を置いてから、前髪を掴んで引っ張っている宏隆の頭を乱暴に撫でた。
「うわ、ちょっと」
「ほら、無造作ヘアーのできあがり。こっちの方が好きよ」
「そりゃどうも。シートベルト締めてね」
「はいはい。ごはんは食べたの?」
 香苗がドアを閉めると、すぐに車は動き出した。
「営業でまわっている途中に済ませたよ。まさかこんなに遅くなるとは思わなかったけどね」
 閑静な住宅街に車の音が響く。速度を出さなくても、日付も超えた住宅街にとってそれは大きな音と同じ意味を持つ。香苗は窓からマンションを覗こうとしたが、自分の家がどこなのかわからない。遠ざかっていく自宅に、香苗は確認を諦めた。どうせ、起きやしない。今までだって一度も、車の発進と同時に電気が点いたことなどないのだから。
「こんなに遅くまで一体どこの会社なら売り込みを受け入れてくれるのかしらね」
 皮肉ったが、軽く笑われた。
「うちの会社は幅広いからね。水商売先にも売り込みに行くことだってあるんだよ」
「冗談でしょう」
「もちろん冗談さ。今日は二件、契約が取れたから、報告書を書いていたら遅くなってしまったのさ」
「どうだか」
 香苗は意地悪く笑った。宏隆も前を向きながら、同じく意地悪く笑う。
「信用できない?」
「信用しない方がおもしろいじゃない」
 住宅街を抜けて、国道へ入っていく。ここからは二十分とかからない。
「若いくせに、随分捻くれちゃって」
「ロリコンに言われたくないわね、そういう言葉は」
 香苗は見下すように笑っていった。宏隆は苦く笑う。
「ロリコンって。香苗はちゃんと十八歳だろ、もう結婚できる年だ。よって俺はロリコンじゃない」
「なに言っているのよ。私に目をつけたのは高一のときだって言っていた人が」
「しょうがないだろう、気に入っちゃったんだから」
 宏隆と香苗が始めて会ったのは、香苗が高校一年の冬だった。バイトを終えて帰宅すれば、両親に酌をされている宏隆がいた。新しい職場で一番に仲良くなった先輩だと、圭介は香苗に紹介した。圭介の隣で笑う宏隆は、まるで圭介と同い年のように馴染んでいた。まさか、圭介より四つも年が上だとは思わなかった。
 それから、宏隆は圭介に連れられてよく香苗の家に来るようになった。圭介は宏隆を大変気に入っていたし、宏隆も圭介を気に入っている、だからよく顔を合わせるのだと思っていた。巧妙に隠しながら、けれども確かに制服の上を滑る視線に、香苗は気が付いていなかったのだ。
 高校二年の夏休み、勉強の合間にリビングへと足へ向けたら宏隆が一人で座っていた。圭介はトイレだと言う。その時初めて、香苗は宏隆を男だと認識した。そういう目をしていたからだ。家族が周囲にいる時の視線と、二人きりの時とでは視線が違う。声色も、どこか粘着質に変わっていた。冷却シートのように冷たいくせに、吸着する声。
 二人きりの時間は長くはなかった。それでも機会を狙う宏隆の姿は獲物を狙う野生の獣のように香苗に映った。とって付けたような理由で名刺をもらい、その日のうちに、香苗は宏隆に連絡を入れた。
 獣に食べられる小動物の気持ちが知りたかった。
「ねえ、途中、コンビニ寄って」
「香苗の働いている?」
「ばか。絶対来ないで」
「なんで?」
 返事の代わりに、うっすらと笑顔のままの横顔を眺めた。何もかも知っている癖に、何も知らないふりをする。大人という生き物がずるいのか、この男がずるいだけなのか、香苗にはまだわからない。経験値が足りない。
「明日の朝ごはんと、飲み物。宏隆の冷蔵庫なにもないから」
「たった今見てきましたみたいな言い方するなよ。たまには自炊だってする」
「今日は?」
「空っぽ」
 ほら、やっぱり正解じゃない。香苗が笑ってやると、宏隆もだらしなく笑った。
「宏隆はなに買う?」
「ビールかな」
「ビール臭い口とキスするのはいや」
「わがままだな」
 声色だけで宏隆が苦笑しているのがわかった。わがままでも、受け入れてくれる。香苗は宏隆にわがままを言うのが好きだった。受け入れられる度、自分の価値が上がる錯覚に陥るからだ。
 国道を右折すれば一気に周囲が暗くなる。車は威圧的な高層マンションを目指して薄暗い商店街を進んでいく。ほとんどの店はシャッターが閉めてあって、香苗は人気のないこの道が好きだった。衰退してしまった街は、まるで遺跡だ。その中、煌々と輝くのはコンビニの明かりだけ。明るすぎるコンビニの照明は、遺跡をライトアップする明かりぐらいに不釣合いだ。
 香苗はコンビニに着くまでずっとその景色を眺めていた。取り残された切なさには哀愁が漂っていた。
 コンビニで買い物を済ませて、マンションの地下駐車場に車を止めるとすぐに宏隆の部屋へと向かった。真新しい宏隆の部屋からは芳香剤の香りだけが際立っていた。
 香苗は無言でリビングに入って行った。荷物は宏隆が持っているから、香苗は手ぶらである。一人暮らしには無駄に広いリビングの中、辺りを見回す。三日経っても、リビングだけは何も変わらない。変わったのはエアコンやテレビのリモコンの位置だけだ。洋服が散乱することもなければ、花が飾られているわけでもない。食器棚の中身もそのままだ。
「自炊なんてうそね」
 冷蔵庫に買ってきた朝食を仕舞い込む後姿に声をかけた。宏隆は振り返らずに答える。
「どうしてそう思う?」
「食器の位置が変わっていないし、食べ物の匂いがしないもの」
「こわいな、香苗は。浮気をしたらすぐにバレそうだ」
「そうでもないんじゃない? だって、嘘つくの、得意でしょう」
 笑って言えば、宏隆が振り返った。後ろ手に冷蔵庫を閉める。
「それは誤解だよ。隠し事が上手なんだ」
「同じことよ」
 テーブル前に設置された革張りの茶色いソファに腰掛けようとすると、宏隆に止められた。
「こんなところでなにをするつもりかな?」
 含み笑いは色っぽかった。香苗が乱した髪形の所為かもしれない。香苗も同じように笑って、座りかけた腰をあげた。
「せっかちね」
「男なんてみんなそんなものだよ」
「そうかしら。彼氏くんの方は、私の家に来ようともしないけど」
「それは男じゃないな。少年って言うんだよ」
 言われなくてもわかっていた。栄治を例えに出したのは、今のところ、香苗には比較対象が他にいないだけだ。
「そうね、そうだわ。で、男はこの後、どうするのかしら?」
「お姫さまをすぐに食べちゃうだろうね」
「シャワーも浴びず?」
「それも醍醐味だよ。終わった後に浴びればいい。先に部屋に行っていてくれるかな? お風呂にお湯をためておいてあげるよ」
「あら、紳士ね。ただの野獣かと思っていたわ」
「野獣になるのはこれからさ」
 それを捨て台詞に身を翻す。脱衣所の扉を開けようとして、思い出したように振り返って言った。
「噂の彼氏くんは、香苗がこんなに淫乱だなんて知ったら、どう思うだろうね」
 その顔はどこまでも醜く妖艶だった。
「さあ? きっと受験に失敗するわ」
 香苗は笑っていた。その笑顔に、黒ぶちの眼鏡はどこまでも似合わなかった。


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ジャンル : 小説・文学

堕落のシモベ

 饐えた匂いが部屋には充満している。風呂を使わないわけではない。体臭ではないのだ。腐臭は、投げ出した家事に問題がある。
 台所にはごみが散乱し、収集車に合わせて起きることもできなかった家主のせいで、1kの玄関を兼ねた台所にはごみの袋と、途中からごみを袋に入れることすら放棄したレトルトの食べ終わったパックやらジュースの紙パックやらに蹂躙されている。
 それにも、慣れた。
 饐えた匂いも、場違いなように香る真新しいシャンプーの匂いも、虫干ししていないぺったんこんな布団にも。
 私は裸のまま布団から這い出して、煙草を咥えた。この部屋に布団の上以外まともな居住スペースはないので、冷たい炬燵テーブルに腰掛ける。暖房が効いている室内で私は鳥肌を立てた。
「ねえ、霞、こっち向いて」
「いや。至福の時を邪魔しないで」
 私は男の甘える声を一蹴した。沈黙が降りて、男は黙る。気が弱いのだ。
 暗闇の中、散らかった室内から目を逸らして窓を見やる。近所の家には、まだオレンジ色の明かりが灯っている部屋もある。数は圧倒的に少ないけれど。
 開けてもいない窓に向かって煙を吐いた。途中で暖房に邪魔されて、紫煙はそのまま自分に帰ってきた。
 紫煙にため息を吹きかける。淡くも白い煙はたった一息で四方に散って見えなくなった。
「ねえ」
 煙草を咥えたまま、男に声をかける。「わたし何やってんのかしらね」
 空いている手で灰皿を探しながら男の返事を待った。確かテーブルの上に小さなガラス製の灰皿を置いていた気がするのだが、記憶が確かではない。
 男は軽い声色で沈黙すらおかなかった。「何って、セックス」
「それは終わったわよ」
「じゃあ煙草吸っている」
「あんたに聞いたわたしがばかだった」
 やっと探し当てた灰皿には吸いがらが山になっていた。その上にまた灰を落として山を築く。



______________________



堕落した若者の話を書こうと思ったんですが、眠る時間がとうに過ぎていたので眠ることにします。
気分で書いただけっていうか、汚い部屋を書きたかっただけ(の割に描写できていない)なので、たぶん続きません。

ゆところでこのブログ需要あるんでしょうか。ないような気がしてきたよぱとらss(ry

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

窮屈な眼鏡(6)


 香苗の家はオートロックのマンションだ。自動ドアをひとつ潜り、機械に鍵と同義の番号を打ち込む。すぐに開いた二枚目のドアを素早くくぐり、広いロビーを早足で抜ける。大理石を模した床の石は、ローファーでさえ足音を響かせる。香苗は自身の足音に追われるようにエレベーターのボタンを押した。節電の為に暗くなっているロビーは薄気味悪い。エレベーターが地上に来るまでの間、オレンジ色の照明に照らされた広いロビーに充満している静寂の気配が気持ち悪かった。気温は高いのに、寒さすら感じる。
 広い中、ぽつりとエレベーターを待つ女子高生の姿は、孤独そのものだった。
 程なくしてやってきたエレベーターに乗り込むと、香苗は十五の数字と閉じるボタンを同時に押した。家が特別好きなわけではないが、広い場所に一人で居るのは、嫌いなのだ。
 香苗がドアを開け、控えめな声で帰宅のうまを告げると、まだ起きていた長男がリビングからおかえり、と声を返してきた。
 玄関からすぐの自室には向かわずに、兄、圭介のいるリビングに向かう。圭介はスーツのネクタイと上着だけを脱いだ格好で、缶ビールを手にした。音量設定が小さい液晶テレビには、ニュース番組が映っていた。
「お母さんとお父さんは?」
「香苗と入れ違いで寝たよ、ついさっき。今日はおまえ、早かったんだな、夕飯冷蔵庫にあるぞ」
 早いと言っても、時計の針は十の数字より手前に在った。
「今日は残業がなかったから。ごはん、なに?」
 さらりと嘘をつきながら、日常の会話を続ける。
「メンチカツと、山盛りのポテトサラダ」
「ものすごくダイエットに悪いメニュー」
「無茶言うなよ。毎日献立考えるのって、大変なんだぞ」
 なぜ知っているのか、香苗は問わなかった。圭介は香苗とは年が離れている。二十七歳の圭介は、今でこそ食品会社の営業の職に就いているが、二年前までは病院で調理師をしていたのだ。しかし、営業も最近では不規則らしく、業績が悪ければ日曜も出勤しなければいけないのだと、以前圭介は愚痴を漏らしていた。
 香苗は冷蔵庫から自家製の烏龍茶とメンチカツの皿を取り出し、一旦カウンターテーブルに置いた。グラスを取り出して烏龍茶を注ぎ、戻すついでにポテトサラダを取り出す。
「お兄ちゃん、そっちまで持っていくの手伝って」
「なんだよ、お兄ちゃんはなあ、疲れてるんだぞ」
 鬱陶しそうな口ぶりだが、律儀に立ち上がる。
「ポテトサラダよろしくね」
「一番重いの頼むなよ」
「力仕事は男の仕事じゃない?」
「そんなん、差別だ差別」
 文句を言いながらも、香苗と一緒にテーブルに食事を運ぶ。兄という生き物は大概妹に甘いものだ。年が離れていれば尚更である。
 香苗はお皿とグラスを置いてから、箸をとご飯を取りに戻り、席に着いた。
「いただきます」
「召し上がれ」
「お兄ちゃんが作ったものじゃないじゃない」
「ポテトサラダ運んでやったじゃないか」
「それしかしてないでしょう」
「あのな、俺はそれ以前に、しっかり働いて帰ってきたの。おまえの学費だって俺が家に入れてる金が少しは入っているだろうよ。感謝しろ」
「はいはい、感謝していますよお兄さま。あ、ポテトサラダ、量は多いけど美味しいね」
「俺のレシピだからな、冷凍野菜は言語道断だ」
「隠し味は?」
「企業秘密」
「お嫁に行くのに役に立つと思うんだけどなあ。教えてくれないの?」
「その前におまえは料理の基本を覚えろ。そうしたら教えてやる」
 ぐい、と缶ビールを飲み干す圭介に、香苗は下を出してやった。料理は苦手なわけではないが、好きなわけでもない。家庭科の評価なら満点を取っているが、家庭科と、家庭料理は別物なのである。
 香苗はメンチカツにソースをかけながら、携帯電話の存在を思い出した。いつも、食事の際携帯を同行させるのは習慣になっている。
 もしかしたら、返事が来ているかもしれないし。
 隣の椅子に放っておいた鞄から携帯電話を取り出したが、中身を開いても着信の痕跡は見当たらなかった。メールの痕跡だけを見つけたが、それは後回しにした。相手は知れている。
 香苗は圭介も見ているニュース番組を眺めながら次々とおかずを口に放り込んでいく。ニュースがちょうど政治の部分にさしかかった所で、香苗はポテトサラダ以外全てを平らげた。残ったポテトサラダを先にカウンターテーブルに持っていく。
「これさ、一体じゃがいも何個使ったんだろうね」
「昨日冷蔵庫チェックした時にはじゃがいもが四個あったから、それ全部だろうな。今日はもうなくなってたし」
「四個って。余ること考えなかったのかなあ」
 席に戻り、空になった皿と箸はカウンターを抜けて、シンクの中に置いた。
「余ったら、次の日パンに挟んで食べればいいんだよ。ポテトサラダとパンの相性は抜群だからな。フランスパンだとさらにいいんだけど」
「まあ、贅沢を言うなってやつだね。これ閉まっちゃうけどいい?」
 問いながら見れば、兄が陣取っているソファーの前、ガラスのローテーブルの上には枝豆が置かれている。
「ああ、閉まっちゃって。サランラップかけるんだぞ」
「わかってるよ、もう」
 香苗は言われた通りラップで蓋をし、まだ重量のあるポテトサラダを冷蔵庫へと閉まった。
「お兄ちゃん、お風呂は?」
「これ飲み終わったらはいるよ」
「じゃあ私はあとでいいや」
 携帯と鞄を手に取り、リビングから離れようとする。リビングと廊下のドアを開ける直前、圭介が「勉強もほどほどにな」と、兄らしい言葉をかけてきた。香苗は振り返らずに手を上げた。笑顔を作るのが面倒だったからだ。圭介の見えない所で、香苗は苦笑していたのだから。
 自室に戻り、机の隣に鞄を置くと、携帯電話を手にしたままベッドに寝転がった。
 メール受信、二件。
 香苗はそれを開くのも面倒だと思ったが、後々質問される方が面倒だ。期待していた着信は、帰ってきていない。
 案の定、メールの差出人は栄治だった。午後八時十六分と、午後九時二十二分。前者はバイト中、後者は電車の中だ。
 二通とも絵文字などの些細な部分は違っていても、内容は同じだった。
 バイト終わった?
 それだけである。香苗はつまらなそうに携帯電話をいじりながら、嘘を書き連ねた。
 店長に捕まっちゃって、さっきやっと終わったよ。
 もちろん過剰装飾も忘れない。栄治とのメールのやり取りで唯一おもしろいのは、過剰に恋愛の色を反映させた装飾を施す作業、そればかりだ。
 もちろん、実際に会うのは楽しい。まだまだ幼い栄治を見るのも、年の差を気にしている栄治をからかうのも、機嫌を損ねさせるのも、その機嫌を直すのも全部楽しい。初心な男を手玉に取るのは、それはそれで楽しい娯楽だ。
 それでも、と香苗は思う。
 栄治は初心なあまり、香苗の家には絶対来ない。栄治の家に香苗が行くことも難色を示す。キス以上に進む度胸がまだないのだろう。中学生といえばもっと野獣かと思っていた香苗は、その点に関しては落胆している。
 携帯電話が震えた。メールの受信だ。着信ではない。
 香苗は震える携帯電話を眺めた後、とうとうそれを枕元に放置した。
 ベッドから立ち上がり、昨夜も空けたカラーボックスの中から、おはじきを取り出す。
 そして、それを部屋中にばら撒いた。おはじきの雨が降った。桃色のカーペットを敷いているから床に落ちても音はほとんど響かずに、軽い音ばかりが部屋に散らばる。
 香苗は床に散らばったガラスを見ていた。割れた破片のようなそれを、ただ、上から見下ろす。
 無意識の内に眼鏡へと手が伸びていた。黒ぶちの眼鏡を、優しく触れる。
 香苗は体内で蠢く衝動を感じ慌てて眼鏡をはずした。簡単に手が届かないように机の上に置く。
 ぼやける視界の中、おはじきは蛍光灯に当たって水面のように光っていた。


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窮屈な眼鏡(5)

 
 香苗が制服に着替え、バックルームにいた社員に声をかけて出てくると、まだレジの所に正平がいた。裕輔と話し込んでいる。裕輔が先に香苗に気が付いて、おつかれ、と声をかけられた。
「おつかれさまです。で、羽鳥くんはアイス溶けるんじゃないの?」
 香苗がバックルームに引っ込んでから五分は立っている。冷房が効いているとはいえ、帰り道の時間も加味すれば溶けてしまってもおかしくない。
 正平は言われてやっと、自分が手にしている袋に気が付いた。
「忘れてた」
「そんなに夢中になって、なにを話していたのかな?」
 なんでもないよと言いかけた裕輔の言葉を正平が遮った。
「藤原さんの彼氏のこと詳しく話せってうるさくって」
「うわ、おまえバラすなよ」
「バラされて困るようなこと聞かないでくださいよ」
 香苗はため息をついた。嬉々として惚気話をする気も、できる気もしない。
「元村さん、お客さん」
 ちょうどレジ付近にいた客を目ざとく見つけて接客を促した。慌てていらっしゃいませと接客専用の声に戻った裕輔に会釈をし、香苗はにこやかに手を振ってドアへ向かった。正平も同じように会釈をして後をついてくる。
 ドアを出たところで、正平が口を開いた。
「助かった。でも本気みたいだよ」
 夏休みの中ごろ、ちょうど香苗がバックルームから出てくるのと正平の来店が同じだった時、コンビニを出てからしばらく進行方向は同じだと知った。それ以来、こうして時間が合うような場合は途中まで一緒に帰る。もしくは、危ないからと正平が香苗を駅まで送る。
「どういたしまして。でも本気って、なにが?」
 香苗は何のことだかしっかりと把握していたが、敢えて気づいていない体を装う。
「なにがって、元村さん。本気で藤原さんのこと好きみたいだよ。どうする?」
「本当に? 冷やかしているだけよ」
「そんな、またご謙遜を」
 からかい口調だったが、正平の言葉には嫌味がない。
「謙遜なんかじゃないってば」
「でもどうするの?」
「どうするって?」
 コンビニの駐車場を出て、右に曲がる。
「だから、元村さん。告白とか、してくるかもしれないよ」
「告白、かあ。ないと思うけど」
「なんで?」
「だって、彼氏いるって今日わかってもらったじゃない」
「それで引き下がるぐらいだったら、俺こんなに足止めくらってないって」
 おかげで一緒に帰れてるけどね、と屈託なく笑って言う。
「元村さんもたまには役に立つもんだね」
 香苗が言いながら笑うと、正平も笑った。「たまにはね」
 住宅街は、夜の九時を過ぎれば静かだった。夕餉の匂いも、団欒の音楽も聞こえてこない。街灯に蛾が吸い寄せられては弾かれる音がやたらと響く。
 ふたりは街頭の明かりを頼りに、しばらく直線を歩いていた。駅までは徒歩で十分と少しある。正平の家は駅より手前なのでコンビニまでは五分ぐらいだろうか。
「ねえ、藤原さんって、彼氏くんとはどのぐらい会ってるの?」
「頻度のこと?」
「そうそう」
 香苗は正平の顔を盗み見た。表情から察するに、単なる好奇心だけらしい。色恋の情が見えないことに香苗はホッとした。
「結構会うよ。日曜は必ず会うし、学校帰りに勉強会したりもするし」
「ああ、だからたまに補習来ないんだ」
「うん。結構あの子、寂しがりやっていうか、会いたがりやだから」
「まあ、中学生ってそんなもんだよね。って、俺もよく覚えていないんだけどさ」
 そういって照れ笑いをした。香苗も同じ顔になる。「私も中学時代ってあんまり覚えてないよ」
「そういうもんだよね、普通」
「だからかな。新鮮だよ、中学生の実態?」
 笑って言えば、なんじゃそれ、と返された。
 しばらく直線を歩いていたが、そろそろ分岐点の三叉路が見えてきた。お互い、思うことは同じだったのだろう。香苗は、今日は途中でお別れだと思っていた。何しろ、正平の買い物はアイスなのだ。
 しかし、香苗の予想は外れた。
「駅まで送っていくよ」
「え、でもアイス溶けるよ?」
 香苗が指摘する。正平は苦く笑った。「大丈夫、足止めくらってる間にだいぶ溶けてるから」
 その言葉に香苗は笑ってしまった。確かに、今更アイスが溶けることを心配する必要はないかもしれない。冷房の効いている店内とは言え、冷蔵棚から取り出せば、すでに融点である。
「でも、悪いよ。だって勉強の途中だったんでしょ?」
「ああ、いいのいいの。気分転換も兼ねてるから、この買い物は」
「でも毎回同じアイスなのね?」
「だから、選ぶのに迷うんだって。目的は気分転換だしね。実際アイスは大好きだけど」
「よく太らないよね」
「勉強に体力取られてるんだよ」
 正平は嘆息して言う。香苗は大げさに見えるその態度に、不謹慎とは思いつつも笑ってしまった。
「そんなに?」
「だから、推薦の人にはわからないんだって。この苦労は」
「でも羽鳥くんなら、十分推薦で行けるところあるじゃない。国立だから勉強大変なんじゃない?」
「それもね、貧乏の家に生まれたらわかるよ。藤原さんも来世は貧乏に生まれたらいいよ、俺の気持ちがわかるようになる」
「謹んで遠慮します」
 言いながら三叉路を駅の方に向かって進んでいく。ふと隣を見て、正平の髪には昼間つけてあったヘアピンがはずされていることに今更ながらに気がづいた。「あれ、ヘアピン、取っちゃったんだ」
「ああ、あれ? さすがに外行く時は恥ずかしいでしょ」
「でも似合ってたのに。あれって自分で買ったの?」
 香苗の問いに、正平は大きくかぶりを振った。
「まさかまさか。俺の家、姉貴がふたりいてさ、要するにおさがり。勉強中髪の毛邪魔だなって言ってたら、勝手に付けられてね。でも案外使い心地いいんだ」
「それわかる。前髪って、勉強の時邪魔になるものね。羽鳥くんは、ちょっと内側にカールしてるよね。パーマとか?」
「地毛、地毛。そんなお金ないよ、受験生には」
 受験生、という言葉をこれでもかと主張する。香苗は苦く笑うしかない。
「今まではバイトしてなかったの?」
「一年の時から二年の途中まで焼く肉屋でバイトしてたよ」
「じゃあ貯金あるんじゃない?」
「残念、バイトしながら使い果たしちゃいました」
「それは残念だ」
「だからアイスも安いのしか買えないんですよ、金欠だからね。藤原さん今度奢ってよ」
 笑いながら言う正平の言葉は、もちろん本音ではないことはすぐにわかった。それでも香苗は二つ返事で了承した。「いいよ、今度アイス屋さんでトリプル奢ってあげる」
「え、ほんとうに?」
 金欠というのは本当なのだろう。香苗の言葉に、香苗の予想よりも遥かに期待に満ちた目線が飛び込んできた。
「いいよ、それぐらい」
「あ、でも冷静に考えたら、悪いよね。俺、奢ってもらう理由もないのに」
 期待に満ちていた瞳が一瞬にしてしょぼくれる。一喜一憂がおもしろかった。
「じゃあ、常連のよしみってやつで。もしくは勉強がんばってるご褒美」
「うわあ、上から目線。さすが藤原さん」
「さすがってなに」
 さすが、という言葉に香苗は笑った。脈絡がなくて、意味が繋がっていない。
「いやいや、推薦の人はやっぱり違うなあって」
「なにそれ」
 そうこうしているうちに周囲が明るくなってきた。駅が近づいて、ネオンや駅の照明でほの暗かった道筋が途端に明るくなる。
「ありがとう。もうここまでで大丈夫だよ」
「いやいや。こちらこそ、アイスのトリプル期待してます」
「あ、じゃあメアド交換しておこうよ。なんか、すごい今更って感じだけど」
 言いながらバッグから携帯を取り出す。
「そういえば交換してなかったね。じゃ、俺受信で」
 正平もデニムのポケットから携帯電話を取り出した。
 赤外線でお互いの連絡先を交換し合い、また明日、と手を振って香苗は正平と別れた。携帯電話は手に持ったまま、歩きだす。正平は駅に向かう香苗をある程度の所まで見送った後、踵を返して行った。
 香苗は駅に着いてから、振り返る。正平がまだいるのなら手を振ろうと思ったのだが、もういない。少し落胆している自分に、驚きはしなかった。まだ、携帯電話がある。鳴るのを待つばかりでなくてもいいのだ。本当は、香苗自身、待つばかりでなくていいことはわかっていた。けれども、昨日は待ちたかったのだ。自分からではなく、相手から、送ってきて欲しかった。誘いの言葉を。求める言葉を。
 香苗は駅に向き直り、歩きながら、着信履歴から電話をかけた。呼び出し音が鳴る。鳴り続けて、留守番電話に切り替わった。アナウンスの最中、香苗はため息をつく。
「香苗です。まだ仕事中? さっきバイトが終わって、今帰り。もう日曜は終わっちゃったよ。ペットに逃げられたくないなら、もう少しこまめに連絡してくれないと、脱走しちゃうわよ」
 拗ねたような口ぶりのまま、電源ボタンを押した。押したまま、香苗は少しの間、立ち止まって携帯電話の液晶画面を眺めていた。通話時間、三十二秒。短い伝言。
 三日会っていないだけだというのに、香苗は肌に寂しさを感じていた。


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プロフィール

Author:きむらゆりか
コスプレ、アニメ、漫画、小説、読書、散歩、旅行、外食が好きな小説家志望の小娘。写真を撮るのも撮られるのも好き。
日本舞踊を習っていたおかげか遺伝か、着物が好き。
自分で着物も袴も着れちゃいます。
フリーライターだった、なぜか今の本業はほとんどモデル。ほんとなんでだ。

世界に溢れる「素敵」を、世界中の人と分かち合いたいなんて、そんな甘いことを考えている小娘です。
表現することが好きです。小説も、歌も、演劇も。
そして醜くて汚くて、つらいけれど、だからこそ美しい世界を愛している、そんな虚弱児です。応援してもらえると飛んで喜びます。

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